病気体験記

_nae_ye

流した涙でめだかを飼おう

~めだかの舌癌闘病記~

②生きてるだけで、丸儲け。

明石家さんまの娘さんの名前を知っていますか?
「いまる」というそうです。意味は「生きてるだけで、丸儲け」
本当かネタなのかはわかりませんが、今の私には、とても素敵な言葉に聞こえます。
入院一日目、私は友人あてにこんなメールを送りました。強がり半分、本心半分。きっと不安で押しつぶされそうな心を、奮い立たせるために書いた言葉だったと思うのです。
頑張らなければという気持ちと、逃げ出したい気持ちとの狭間で、揺れ動いていたのだと思います。
今まで、病気らしい病気をしたことがなかった私は、入院するということの意味を知らずにいました。そして、徐々にその重さと残酷さを知り、どん底に突き落とされていったのです。

私の入院した部屋は、ナースステーションから一番遠い場所にある、いわゆる軽傷者向けの病室でした。
口腔外科専門の病棟ではありましたが、私の入院時、6床あるうちの3床を、他科の患者さんが占めていました。1床が空きベットになっていたので、実際に口腔外科の患者は私を含めて2人。正直、居心地がいいとはいえない状況でした。
内科系の患者さんは、とっても良くしゃべります。もちろん、病気自体は難病指定されている難しいものだったり、合併症を伴う糖尿病だったりと、決して簡単な病気ではありません。でも、私たちのような口腔内の異常はないわけですから、よく話をするしよく食べるのです。新参者の私は、当然、噂の的になりました。
「まだ若いのに、何の病気かしら?」
「検査入院にしちゃ、ずいぶんと暗いから、やっぱり悪い病気なんじゃない?」
「あとで、ちょっと声をかけてみましょうよ。」
「でも、あれよね。口腔外科の患者さんは大変よね。手術でしょう?」
ある程度の年齢を重ねられた方たちなので、本人たちはヒソヒソ声だと思っていても、かなりの音量があります。いじめだ……。そう思いました。
自分の病状も詳しく知らない私は、彼女たちを満足させる答えを口にすることすらできません。
それでも、この状態を長く続けることは自分としても避けたかったし、これから長く続くかもしれない入院生活を円満に送るためには、同室の患者さんとの友好的な関係を築いておきたいとも思いました。
私は、精一杯強がって挨拶をしました。
でも、入院直後に行われた看護師さんとのオリエンテーションで、言葉に詰まり、病室からカンファレンスルームに移動しなければならなかった私の状態を、彼女たちはしっかりと見ていたのです。ダメダメで弱り切っていた私のことを、彼女たちはちゃんと見ていた……。
そのせいか、病室に戻ってきた私に対して、とても優しく接してくれたように思います。先ほど耳にしたような露骨な質問はなく、むしろ入院治療中の先輩として、アドバイスや笑い話をしてくれました。きっと、少しでも不安と緊張を和らげてくれようとしていたのでしょうね。
のちにこの部屋に入ってきた患者さんから聞いたところによると、当時の私は、はたから見ていても気の毒なくらい気落ちしていて、かける言葉にも困ったそうです。確かに、ひとりベッドで泣き続けていた記憶があります。枕もとにおいたクマのぬいぐるみをなでながら、子供のように体を丸めて、声を殺して……。カーテンを閉め切っている時間も、かなり多かったように思うのです。

入院するにあたって、何よりもつらかったのは、子供たちと別れて暮らさなければならないことでした。
当時、小学2年生と幼稚園の年長さんだった子供たちは、私の不在により、主人の実家での生活を強いられることになりました。
あいにく、私の実家までは車で一時間ほどかかる距離に住んでいましたし、何よりも私の母は体が不自由で、孫の面倒どころか、自分のことさえも人手を必要としていたのです。
私は、長女の出産を機に仕事から離れ、専業主婦として、時間の許す限り子供たちとの時間を大切にしてきました。絵本を読んだり、一緒にお絵かきをしたり、歌を歌ったり……。
そんな生活を送っていた私たちが、突然、別々の生活を始めなければならなかったのです。それは、私はもとより、子供たちにも、大きなストレスとなって襲いかかったことと思います。
でも、子供たちは強かった。私の心に十分な余裕があった時期の子育てだったことも幸いしたのでしょう。
「あのね、ママね、お口のなかにデキモノができちゃったの。それでね、これをちゃんと治さないと、みんなとずっと仲良く元気に暮らしていけないんだって。ママは、みんなとずっとずっと一緒にいたいなぁ、って思ってるの。だから、ちょっと寂しいけど病院に入院して、ちゃんと元気になって帰ってくるね。」
そんな私の言葉を、ちゃんと理解し納得してくれた。
「ママ、本当は入院いやだなぁ〜。このままおうちでみんなと一緒がいいなぁ。」
と弱音を吐いた私に、
「ママ、そんなこと言ったって、ちゃんと治さなかったら一緒にいられないんだよ。ママが自分でそう言ったんじゃん。私だって寂しいけど、ちゃんと元気になって帰ってきてくれたほうが、ずっと嬉しいよ。だから、わがまま言わないで、ちゃんと病院行かなきゃだめだよ。
と娘。親バカかもしれませんが、このときばかりは、なんていい子に育ったんだろうと胸が熱くなりました。
どちらかというと、下の子のことのほうが心配でした。頼りなさげな娘と対照的に、しっかり者といわれている息子ですが、その心は実に繊細で、時々、どんな対処をしたらいいのか悩まされることもあったのです。
甘えん坊で、私にべったりな子だったので、今回の件でどんなふうに変わってしまうのか、不安で仕方がありませんでした。
私がいなくなっても、どうか今までの素直な気持ちと頑張る心を持ち続けてほしい……。そう思った私は、主人にわがままを言いました。
ひとつだけでもいいから、習い事を継続させてあげてほしいとお願いしたのです。
無茶なことを言っていることは、わかっていました。私のように専業主婦ならまだしも、普通に仕事を持つ父親が、子供の習い事のために時間をさくことなど、普通では考えられません。
それでも、どうしても続けさせてあげたかった。私が不在になることで、本来、しなくてもいい我慢をさせたくなかった……。好きなことに夢中になれる時間があれば、少しは元気もでるのでは、と思ったのです。
入院を直前に控えたある日、私はこの気持ちを友人たちに打ち明けました。友人の一人は、
「合気道なら一緒に連れていくから大丈夫よ。終わったら、ちゃんとおばあちゃんちに送り届けるし、金曜日はうちでいっぱい遊んで、パパの仕事が終わったらお迎えにくればいいんだから。」
と、こともなげに言いました。また、もう一人の友人は、
「大丈夫!学校が終わったらそのままうちで預かって、時間になったらお教室まで送っていくよ。朝、パパに練習着を届けてもらえれば、あとは大丈夫だから。」
と、娘のことを二つ返事で引き受けてくれたのです。
友人たちの力強いバックアップにより、娘はミュージカル教室を、そして息子は合気道を続けることが決まりました。残念ながら、スイミング教室は私の退院までお預け……。
本当はどうにかしてあげたかったけれど、入院期間のわからない状態で、手助けしてくれる人の負担を無駄に増やすわけにもいかなかったのです。

11月1日の入院日当日。
娘は、いつものように笑顔で玄関を出て行きました。
なんと声をかけたのか、今では思い出すことができません。何度も何度も振り返り、小さく手を振って離れていく娘に、私は心の中で、
頑張れ!」
と呟いたのです。
その1時間後、息子も幼稚園バスに乗り込み、あっけないほど簡単に別れの儀式は終了しました。
ただ、ひとつ気になったのは、息子がバスに乗り込んだ際、窓の外で手を振る私を見ることなく、難しい顔で真正面を睨んでいるように見えたことです。それは、息子が泣き出す寸前の様子に、とてもよく似ていました。
母親が不安そうな様子を見せてしまったら、子供も不安になるのはあたりまえ……。
そう思った私は、入院が決まってから、積極的にスキンシップをとってきたつもりでいました。それも、別れを惜しむようなしんみりしたものではなく、プロレス技をかけてみたり、腹筋の特訓といっては子供たちの上に腰をおろしたりと、体育会系のかなり激しいスキンシップ。
子供たちは大声で笑いながら、私を取り合うようにまとわりつき、私も、
「ええ〜い!うっとおしい!」
と言いながら、足にしがみつく子供をブンブンと振り回したりしたのです。
でも、甘えたいざかりの幼稚園生の息子にしてみれば、いくら楽しい時間があったとしても、その後に待ち受けている、母親不在の悲しい現実を埋めるほどのものではなかったのでしょう。かえって、そのスキンシップを今夜から失うことで、強く私の存在を思い出してしまうかもしれない。
結局、どう頑張ったところで、私の不在という溝を埋めることは不可能なのだと、思い知らされたような気がしました。
こうして、たくさんのジレンマの中で、私の入院生活はスタートを切ったのです。

その日の午後、私は急遽、MRIの検査を受けることになりました。
当初の予定では、このMRI検査の予約日が一番遅く、確か11月8日くらいではなかったかと思います。
「入院当日にキャンセルが出るなんてラッキーじゃない。この調子で、実は悪い病気と予想していたものも、検査を進めていったら良性のデキモノでした、って言われるかも?」
そんな希望的観測を抱きながら、私は検査室へ行く準備を進めたのです。
「それじゃあ、行きましょうか」
そう言って、私を検査室まで案内してくれたのは、担当チームの若い男の先生でした。先生は、
「MRIの検査室は遠いし、場所が複雑だから一緒に行きましょう。」
とおっしゃいました。でも、その時点でかなり精神的に不安定だった私は、ひとりでうろうろさせたらどんな行動にでるのかわからない危ない患者、と思われてるのかも……と妙に疑心暗鬼になっていたのです。じゃなきゃ、なんでわざわざ先生が検査室まで同行するのよ。そんな風に、思考すべてが悪い方向へと進んでいました。
でも、残念なことに、これが全くの勘違いというわけでもなかったのです。
先生は、私が検査を終了するのを待って、できたてほやほやのフィルムを病棟まで持ち帰りました。
……そうです。先生は、一刻もはやく、私の病巣が克明に写っているだろうフィルムを検討する必要があったのです。
多分、撮影中もモニターの画面を見て、ある程度の状態はわかったのだと思います。
病棟への帰り道、先生の靴音が、やたらと大きく響いていたことを、私は鮮明に覚えています。

「あら?口に痛みがあるの?デキモノもあるの!あら〜……あのね、あの窓際の患者さん、2・3日前から放射線の治療が始まったんだけど、あなた、彼女と症状が似てるわよ〜。」
向いのベッドのおばちゃんが、意気揚揚と言いました。
「えっ!……そうなんですか?」
「元気だから、そうは見えないけどね。このあと、抗がん剤の治療も待ってるらしいから、入院期間はずいぶん長くなるみたいよ?」
この言葉は、私を随分と不安にさせました。
すでに教授診で悪い病気に間違いない……といわれていた私ですが、その後の治療等に関しては、全く無知の状態でしたから、突然、耳に飛び込んできた「放射線治療」「抗がん剤」という単語に驚いてしまったのです。
可能性として、当然あるだろう治療方法を、どうして全く考えていなかったのか。やっぱり、現実から目をそむけていたのでしょう。
人間とは不思議な生き物だと思います。たとえ、99%間違いないと言われても、残りの1%を信じてみたくなる。100%でないなら、可能性は残されていると思いたくなる。そのくせ、手術後の機能回復目標や、5年生存率のあまりにも低いパーセンテージに絶望する。どちらも、1%よりははるかに高い可能性を秘めているにも関わらず……。
私は、このときまだ、きわめて狭いだろうセーフティーゾーンに滑り込む希望を捨てていなかったのです。でも、徐々にその希望の光は薄くなっていきました。
処置室によばれ、病棟担当の先生たちの診察を受けたときのことです。
「これはT4かい?……T4じゃなくて?」
「T4ですね。ずっと奥まで……。」
「ああ……そうだね、あるね。」
「リンパは小豆大が2・3ってとこか……。」
「検査はできる限り早めて、近いうちにご家族に説明を……。」
先生たちは、私の病気を診ていました。そこにいる、私のことは見ていなかった……。正式な告知はまだなのに、検査だってまだ全部終わっていないのに……。
私は、自分の病気がガンであることを認めなくてはならなかったのです。
涙をこらえるのが、とっても難しかった。でも、そんな先生たちの前で泣くことは、私のプライドが許さなかった。私は、先生たちを信頼することができていなかったから……。
目標が決まりました。
とりあえず、生きて帰ること。
……なんとまぁ。ハードルがいきなり低くなりました。

入院2日目。
主治医の先生が私のもとにやってきました。40代半ばくらいでしょうか。(気難しそうな先生だな……。)それが、先生に対する第一印象でした。
もしかしたら(……というか、多分)入院初日に処置室で遭遇していたのかもしれませんが、私に個別認識する余裕はありませんでしたから、どうしても先生との初対面の記憶は入院2日目ということになってしまいます。
話をしていくうちに、見た目で損をするタイプなんだなぁ……ということがわかりました。
お愛想笑いは決してしません。むしろ怒っているような表情すらしています。でも、その口からでる言葉は、周囲の患者さんには聞こえない、でも本人にはちゃんと届く音量。同室のおばちゃんたちの視線が気になっていた私には、先生のその配慮にほっとしたのです。
先生の口から、今後の検査の予定が告げられました。4日後に頸部のエコー検査と、細胞診をやるとのこと。元々、入院の目的は細胞診だったので、やっと……といえばやっとのことです。
外来で聞いた話では、細胞診の結果によって、一度退院をしてから改めて治療のために再入院する人と、そのまま治療を始めてしまう人がいるとのこと……。私の場合、入院計画書の入院期間の欄に「一週間以上」と記されていたので、後者である可能性が高いことも納得済みでした。
としても、覚悟を決めて入院してきたのだから、できることならそのまま治療を始めてほしいと、入院時のオリエンテーションで看護師さんにも伝えていました。
多少、治療費は高くついてしまうでしょうが、そのほうが私にも子供たちにもいいと判断したのです。別れは一度ですむにこしたことはありませんから……。
一呼吸おいたあと、先生が言いました。
「それから、やっぱり手術になると思います。子供さんも小さいしお若いので、早めのほうがいいと思います。オペは今月中に……。あくまでも予定ですが、早め早めで片を付けましょう。」
やっぱり、そうか……。自分では覚悟を決めたつもりでいても、心に波がたちました。
手術をするということ。早め早めがいいということ。私の頭の中で、様々な憶測が、ものすごいスピードで回転を始めました。
放射線治療をする期間をとっていないのは、切れば治るからなのか……。そんな時間をとっているほど病状に余裕がないからか……。自然と視線が床に落ちました
「あと、食事も睡眠もとれないと体力が落ちてしまうので、今夜から軽めの抗うつ剤をお出ししようと思ってるんですが……。」
私は、何度も小さく頷きました。
正直、気力も体力も限界にきていたのです。痛み止めを飲んでいたものの、効き目はほんの数時間。眠りにつくタイミングを失ってしまうと、次の日の朝食後まで痛みに耐えなくてはなりません。
一度、薬が切れてしまうと、その痛みを無視して眠りにつくのは困難でした。
初めて先生の前で涙を見せたのは、このときだったと記憶しています。少しだけ微笑んだ私の頬を、涙が静かにこぼれおちていきました。

その日の夕食を、私は久しぶりに残さず食べることができました。
たくさん、涙を流したせいでしょうか?それとも、なんとなく自分の進む道がわかり始めた安心感からでしょうか?半分は、そんな理由だったと思うのです。でも、残りの半分は、何も考えたくないという思い。
……現実逃避だったのだと、今の私ならわかったと思います

2009年07月15日 17時45分
体験日 : 2006年11月01日 ~ 2006年11月02日
治療状況 : 診断前/検査入院
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