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- 赤いトランクス穿いて前へ前へ向かう気持ちになるまで
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長男を1歳から預け約5年間お世話になった保育園での卒園式を目前に診断は下った。
前々日は社内コンペ、前日は子供とサッカー観戦(ホーム開幕戦)と仕事が多忙の中に も家族とのひと時を送っていたのに、一瞬にそれが襲った。
観戦後約2時間の運転中、運転が辛いし異常に眠い。休息を2度も取るが倦怠感が体を襲う。帰宅後 夜中38度の高熱でうなされ、翌日の東京出張は中止し、近くの開業医を受診し採血結 果に唖然。医師も再検査を指示するもやはり汎血球減少だ。嫌な予感がするも、すぐに 血液内科へと紹介され、自ら運転し車で10分のはずがその時間の長いこと、何だこの ドキドキは。そのまま検査入院とのことでCT撮影、骨髄穿刺し、病理組織の判断を待 つことに。しかし、医師からはその場で脾腫もありおそらくヘアリーセルだろう、その まま治療だという。
この時、これが慢性とか急性とか、骨髄性とかリンパ性とかの知識は全くない。子供も小さいしこの先どうしていこう、まだ平均寿命まで4 0年以上もあるのに、何か死を宣告されたような気分だ。「そうですか」みたいに苦笑 いするしかなかった。今思えば意外に冷静だったかな?入院後、妻の職場へは連絡する も心配させてはいけないと、「時間が空いたら電話させて下さい」と伝言を依頼。子供 は保育園なので、義父母に連絡を取り迎えに来てもらうことに。妻には直接会って話を しようと、取り合えず入院セットを持って来院してもらう。そこでおおよその病名を知 らせるとお互いに涙が溢れ出す。この時の記憶がここからない。妻がどうやって帰った のか、その晩寝れたのか寝れなかったのか、食事が取れたのかどうか、全く思い出せず 。
確定診断が下されるまでの入院から数日後たまたまNHKの合唱コンクールのドキュメントを見ていた。そのとき流れてきたのはアンジェラアキさんの「手紙」 だ。15歳の時、自分がこんなことなること予想してなかったし、10数年後の自分へ も何て手紙書けるだろうって、涙が流れた。未だにこの曲を聞くと涙が出てくる。しか し、その数日後にはPCを持ち込み、無線ランを使ってネットで病気の分類や治療方法 を検索していた。この病気の80%以上が50歳以上に発症していうということで、あ まり情報もないし、クラドリビンの治療成績も海外データしかなく、再発率なんかもあ まり参考にならない。とにかく今は「あら40」として病気に打ち勝って、30年以上 生きた1症例になることを目標に今はひたすら前向きに生活している。「必死必勝」入 院して間もなくそんな言葉が頭を過ぎった。体育会系ならではの発想だ(笑)
結局、卒園式には2時間の外出許可を頂きその翌日に治療開始。入院中は肺炎や水疱 瘡など、このまま死ぬのかななんて感じるときもあった。特に肺炎起こした時は、39 度の発熱に呼吸苦があって、自然に・普通に呼吸ができない、何か胸が変だ、こんな感 じで苦しくもがいてがん患者は最後感染症で死ぬっていうもんなあ・・・とか。でもた くさんベッドサイドに貼った家族の写真を見ながら、またサッカーしような、また家族 でディズニーランド行こうなと自分を励ました。
入院後子供とは面会謝絶、妻とは治療方針を聞く際に一度しか会えなかったが、無菌室でも妻が朝晩おかずを届け てくれた。あれは本当にありがたかった。駐車場に着いたとメールあると、病室から手 を振りそれと新聞を看護師経由で受け取った。必ず加熱処理したものだけであったが、 毎日何か持って来てくれた。そのおかげで食事を取れなかったのは高熱が出た時の1回 だけだ。それ以外は確かに美味しいとは言い難い病院食(生禁)もほぼ完食。体力が思 ったより落ちず済んだのはそのおかげである。
それとエレベーターホールまで来ながら、子供はそれ以上入れないからとじっと我慢して待っていた息子の成長にも 本当に勇気付けられた。この時テレビ電話があったことも、家族と無菌室との距離を縮 めてくれた要因だろう。そして同部屋の3人の皆さんの元気にも励まされた。年齢が一 回りも二回りも違う父親くらいの人たちとの出会いも本当にありがたかった。幸い私は 慢性リンパ性の分類に入るようで薬も効き易いが、皆さんは急性骨髄性の方ばかりであ った。しかし皆さん前向きで移植の話(経験談や説明を受けた情報など)もいろいろ教 えて頂けた。皆さんテレビ電話で子供さんやお孫さんと語り合って、ほのぼのとした病 室であった。
入院中一つ心配であったのが、実弟の結婚式に出れるのかということ。入院後2ヶ月で出なければそれも難しいという状況であったが、絶対に参列す るぞっていう気持ちが更に自分を後押ししたのは間違いない。結婚式3日前に退院でき ヨロヨロしながらも披露宴で写真を取りまくった。涙が止まらない。何も知らないおば あちゃんが式後に仕事忙しいの?って。ちょっと忙しかったのとダイエットしてるだけ だよって、言ってみたものの母親に後で追求していた。
母は悩んだあげくに病名を告げたようだ。祖母は長崎出身で、原爆当日は疎開していたが数日後焼け跡を訪 ねており、被爆者認定を受けていた。そう私は被爆者3世となっていたのだ。そんなこ と今まで何とも気にしていなかったのに。私の性でと自分を責める祖母に、被爆2世の 母が主治医の先生にもそれは今回の発症には無関係だと確認したからと説明してくれた 。しかし、今も尚、祖母は白血病という名前だけで被爆が原因じゃないかと責め続け、 内心そう思っているような口ぶりが垣間見られる。8月に帰省したときにもその話を聞 いて、何十年立った未だに被爆者の胸の奥底には大きな心の傷として、不安な気持ちが ずっと残っているんだと痛感させられたのを覚えている。
現在、治療後6ヶ月経過し、血液データは良好、脾腫もほぼ改善し、完全寛解を頂く。もう再発なんて 気にしていない、再発するなんて考えてもいない、とにかく前へ前へ進むのみだ。先日 子供の運動会に参加できた(入学式には出れなかったが)さすがにこの場に居る自分が 本当にうれしくて、お弁当食べながら涙が溢れ出した。小学校には放課後子供とリハビ リの散歩がてらよく来ていたのに、何となくイベントに参加できていることがうれしか った。こんな感じで最近はよく何気ないことに感謝するようになり、普通が普通である こと、当たり前が当たり前にできることが本当にありがたい。
先日、伯父さんが消化器がんから生還し患者の会で講演したり、がんサロンで活躍されているのだが 、私もちょっと勉強にと講演を聞かせてもらい、伯父から赤いトランクスを頂く。体の 中身から気持ちを奮い立たせるにはこれが一番なのだそうだ。言われて穿いてみるとこ れが何となく体が火照って来た様な気がする。勝負パンツとか世間では言うが、私のま さに勝負パンツは今は「赤いトランクス」だ。再診日には必ずそれで行き、データの改 善を願う。伯父さんも言っていた、「前へ進む気持ち、進もうとする気持ち」、「病気 したことで運が来たと思えば、運がどんどん入ってくる、運が自分に向いて来るんだ」 と。その伯父さんの言っている意味が何となくわかってきた今日この頃である。 2009年10月22日 14時31分

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