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『ガンになっても私、セクシィ? 』(パンドラ 2008/09)
竹内 尚代さん(卵巣がん)
53歳のとき、卵巣がんを発病した。人生の変遷を経て、二度目のパートナーと3人の子どもを抱えて「小学校の緑のおばさん」として働きながら、労働運動に邁進していたときのことだった。制度や労働者の権利を守るだけではない運動を目指したくて、もう少し大きな目的にトライしたいと思っていた矢先の発病で、本当にショックだった。
生きていけるかどうかというより、人生の目標を失ってしまったという思いのほうが強かった。もともとは文学少女で文芸評論を目指していた時期もあったので、組合の機関紙に闘病日記を書くことでささやかな満足感を得ていた。それを見た知り合いの編集者が、「本を出版してみないか」と声をかけてくれたことで、「本を出す」という長年の憧れが実現するかもしれないと飛びついた。何度かの入院中、たくさんの闘病記を読んだが、セクシュアリティに触れているのがなかったので、本当はそれをテーマにしたかった。しかしパートナーに配慮しなければならないし、私もそこまで踏み込む勇気がなかったので、結局自分史的な本になった。
それでも、自宅療養中、毎日決まった枚数を自分に課して原稿を書くという行為はどれほど私を慰めてくれたかしれない。お腹の傷をかばいながら毎日散歩をして体力をつけ、机に向かうのは、ともすれば自堕落になりやすい自宅療養で、再発や転移への不安を抱える私にとって心身ともにリハビリになった。それはもう「本を出版したい」という憧れを越えて私の人生の再出発のように思えた。 ところが不安を抱えた心は容易に再出発できず、混沌とした私はパートナーに当り散らし、次第に二人の間はギクシャクしてきた。そして、私の爆発したカオスは転がり落ちるように二人の関係を壊してしまった。きっかけは闘病記の中のセクシュアリティにどう触れるかであったが、その前からの二人の関係性が噴出したのだと、いまは思う。
その後、発病して6年たった59歳の時に再発した。「子宮も卵巣も全摘出したのに、なぜ? 」と思ったが、腹腔内にできていたのだ。がんの芽が残っていたということなのだろう。
手術後復帰したのは定年退職直前だったが、母子家庭なので仕事を辞めてしまうわけにはいかない。もう体力的に緑のおばさんを続けることはできないので、再任用は事務の仕事に移った。
それから4年目のいま、事務の仕事にも慣れ、組合も細々と再開し、昨年はヨーロッパにオペラ鑑賞の旅に行けるまでになった。いまは、小さな旅や食事、美術館を楽しんでいる。パートナーと別れてから始めた書道に癒され8年目。老後は書道教室を開くのが夢。
本を読んだ方からお便りをいただき、特に卵巣がん患者とは手紙やメールでずっとお付き合いが続いていたがもうすでにこの世にいない人が多い。
本の最後にグループをつくりたいと書いた。入院していた癌研究会附属病院でグループづくりができたらと、度々の入院で友人もつくり検診のときにランチをしたり、主治医を同じくする患者仲間で年何回かのお喋り会も催したが、それらはすべてあくまでも個人的な集まりである。いくつか患者会にも顔を出し入会したりしたが、私自身、主体的にグループづくりをすることはなかった。原因の一つは私自身が生活に追われているからだろう。まだ扶養しなければならない娘がおり、一人力で生活を支えなければならない。それから、患者の一人ひとりの病気や環境、心のあり方が違うのに、団体で何かをするのには違和感を持ったことも一因だ。こうすべきだとは言えないし、人によって違うということを、私の出会った人たちから教わった気がする。会では話せないとても個人的なことや出会った患者の心にただ寄り添いたいと私は思うようになったのだ。


















