●Mika● さんの乳がん体験エッセイ

2009年の入会以来、周りを巻き込むバイタリティーで、多くの方々から人気の●Mika●さん。 ライフパレット会員のカリスマと言っても過言ではありません。
そんな●Mika●さんも、実は入会当時、死にたい程辛いと思っていた時期があり、体験エッセイでは、 当時の心境から現在復帰に向かうまでの、ありのままの気持ちが綴られています。

死ぬことが怖くて死にたくなった日

深海 -自殺願望-

2002年に乳癌の手術を受け、その後、抗がん剤治療が始まった頃だっただろうか。 「転移して癌で死ぬことが怖いから死にたい」というとても矛盾した思いにかられた。

その頃は、ただただ泣くだけだった。
抗がん剤治療も副作用が辛く、時に点滴用のベッドに寝ただけで泣けてきた。
それでも生きることに必死だった。
転移をしたくない。2年間の予定の抗がん剤治療と5年間のホルモン治療を転移せずに無事終えたい。
まだ私は36歳だった。

私たち夫婦はオートバイが好きだ。
毎年夏休みを使っては、東北、四国、紀伊半島と日本全国制覇を目指して、1週間で3000km走るツーリングに出かけていた。後は、東北地方の太平洋側と九州、北海道、山口県を残すのみとなった。
しかし、抗がん剤の副作用で体力、免疫力、白血球と低下している私にとって、1300ccのオートバイで3000kmを走ることは困難になった。
ふたりの夢が止まった。

抗がん剤治療のためと、その副作用の期間、仕事を休むことになった。
倦怠感が強く、家事ができなくなった。仕事と治療と体を休めること。これが私の日課となった。
それでも笑って抗がん剤治療を続けた。それは治るためであり、自分が自分に戻るためでもあった。

しかし、2年で右肺に転移した。
終わる予定の抗がん剤治療が薬の種類を変えて続けられた。
今度は、吐き気や倦怠感に加えて、髪が抜けた。洗髪するたび、髪をとくたび、指にごっそり絡まる髪。日ごと髪は抜け、お岩さんのように少しだけ残った姿は耐えられなかった。
翌朝、髪をスキンヘッドにした。「骨電動~!」とおどけながら、夫の電気かみそりで頭を丸めた。心の中で泣いていた。

それでも転移した腫瘍はなくならなかった。 腫瘍を摘出する手術を受けた。 そしてまた薬の種類を変えて抗がん剤治療は続いた。 すごろくで上がる直前に「振り出しに戻る」に当たった気分だ。 今度の抗がん剤の副作用は40度近い熱と吐き気、手足の痙攣だった。 具合は益々悪くなる一方で、仕事を休むことが多くなった。 家事もできなく、自分にできることが何もなくなったような喪失感。

そんなある日、手首を切った。
血があふれ出てみるみるうちに足元に血溜りが広がっていく。
驚き、泣き叫ぶ私に夫が気づき、事なきを得た。
通常右利きの私であれば、左手首を切るのであろうが、左のリンパ節を摘出しているため、左腕では採血も血圧も計れないことを知っていた私は、無意識に、いやたぶん意識的に、右手首を刺した。
きっと死にたい思いと生きたい思い、今の状況から抜け出したかっただけなのか、旦那に辛さを分かって欲しかったのか、ちゃんと左手を守り、傷が大きく残らないように動脈を刺した。

女性ホルモンを止める(乳癌の栄養源となるため)「ホルモン治療」による強制的で自然の流れに逆らった閉経も原因のひとつであろう。

それからも時々、「もう嫌だ。死にたい」という思いに駆られ、苛々した。部屋の物を投げて暴れた。
しかし、この時も実にしっかりしていて、大事なもの、割れるものは投げない冷静さと部屋中ぐちゃぐちゃにする冷静さに欠いた自分がいた。

それでも私は笑って治療を受けた。抗がん剤治療の時も嫌なくせに、嫌だという気持ちをごまかすために、「いただきま~す」と言ってみたり、点滴棒がいかにも病人くさいからと夏はハイビスカスのレイをかけてみたりもした。

気がつくと癌関係の本をいつも読んでいた。
「肝臓の中の影の周りが白ければ原発ではなく転移なんだ」とか、自分がどうなっていき、どういうことが死ぬ前に起こるのかを考えてばかりいた。

働きたくても体が動かない。
休む日が多くなる。職場に迷惑をかけた。休んだり出勤したり、あてにならない職員であることが苦痛だった。


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